亥の子の意味や由来は? 2024年はいつかなのかも知ろう
最近では、急激な過疎化や少子高齢化によって、日本に古から伝わる行事や風習が廃れてしまっているようですね。「国民の祝日」のような国民的行事や観光的なイベントであれば、由来などを知る機会もあるでしょうが、そうではない行事は徐々に人々の関心が薄れ、やがては忘れ去られてしまいます。
今回ご紹介します「亥の子」も、そうした行事の1つかもしれません。そのことを示す例として、あなたは「亥の子」の字を見て「何と読むのだろう?」と思いませんでしたか?
あるいは、「亥の子(いのこ)」と読めたとしても、何の事だかわからなくて「亥の子」って何の子、なんて思った人もおられる事でしょう。日本人の一人として、季節ごとの日本の風習や伝統的な行事について、しっかりと理解しておきたいものです。
◆亥の子の由来
「亥の子」の由来は、古代中国にまで遡ります。古代中国では、旧暦10月亥の日、亥の刻(夜9時から11時頃)に穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習があったとされています。この餅を食べることで無病息災に暮らせるという信仰があり、その風習が日本の宮中行事に取り入れられたという説が有力です。
また、他にも景行天皇が九州の土蜘蛛族を滅ぼした際に、椿の槌で地面を打ったことに由来するという説もあります。こうした宮中での行事や言い伝えが、しだいに貴族や武士にも広がり、やがて民間の行事としても定着していきました。
◆亥の子の意味や別名
亥の子とは、亥の月(旧暦10月)最初の亥の日のこと、あるいはその日に行われる行事のことです。亥の子は主に西日本で見られる行事で、「亥の子餅」を食べ、無病息災・家内安全や多産の猪にあやかり子孫繁栄を祈ります。農村では、刈入れが終わる時期でもあり、収穫の祝いと神に感謝する行事でもありますよ。
「亥の子」は、地方によって「亥の子祭り」や「亥の子の祝い」あるいは「玄著(げんちょ)」とも呼ばれています。京都市上京区には、「いのしし神社」として親しまれている護王神社(ごおうじんじゃ)というお社がありますが、こちらで行われる亥子祭(毎年11月に斎行/2024年は11月1日(金))では、平安絵巻さながらの儀式が再現されます。
亥の子の祝:西日本で、亥の子の日に行われる収穫祭の行事。関東地方の十日夜(とおかんや)にあたるもので、この日に収穫を祝って新穀の餅を食し、子供たちがわら束や石で地面を打って回る。もと、中国の俗信に基づく宮中の年中行事。亥の子。玄猪(げんちょ)。小学館 デジタル大辞泉より
「おつき式」では、宮司が天皇に、祭員が殿上人に扮し、一般からも公募した奉仕女房が拝殿で優雅な儀式が繰り広げられます。「おつき式」で作られた「亥の子餅」は神前に供えられ、調貢行列をつくって京都御所へも献上されます。ぜひ一度ご参詣して雅な雰囲気に浸ってみてはいかがでしょうか?
◆2024年の亥の子は11月7日
では、2024年の「亥の子」は、何月何日になるのでしょうか? 11月最初の「亥の日」が、「亥の子」になりますから2024年は11月7日(木)になります。
「亥の子祭り」は、近畿地方以西ではなじみ深い行事ですが、関東では「亥の子」の名前すら知らない人もおられるでしょう。しかし、関東・東北地方では「亥の子祭り」と似通った行事として、10月10日の夜に行われる「十日夜(トオカンヤ)」と呼ばれる行事を行う風習があります。
この十日夜(とおかんや)は、収穫が終わり田の神が不在となった間に、邪気祓いと来年の豊作を祈る行事です。集落の子ども達が、旧暦10月10日に藁鉄砲と呼ばれる藁束で地面を叩き、囃子歌を歌いながら地域の家々を巡り歩いて、ご褒美としてお菓子や餅などを振る舞ってもらう行事です。
十日夜において、囃子歌(はやしうた)を歌いながら子供たちが家々を巡り歩く行為は、関西地方の「亥の子祭り」においても見られる風習です。こうした風習は、家の前で縁起の良い芸を披露して、金品を受け取る「門付芸(かどづけげい)」と結びついたとものと考えられています。
今や日常生活で「門付芸」を見ることはありませんが、江戸時代には盛んに行われた大道芸の1つです。テレビドラマや映画などで、正月に出てくる獅子舞(ししまい)、大黒舞(だいこくまい)といったほうがイメージしやすいですね。
「亥の子」の行事において、子どもたちが近所の家々を周り、家の前で「亥の子の歌(数え歌)」を歌いながら、地面をついたり叩いたりする祭事を行っていました。
そして、その家から亥の子餅(いのこもち)やご祝儀(お金)を受け取っていたようです。こうしたお祭りの風習は、子供たちが「門付芸」を模倣したものと推測されています。
その理由として、子供たちが歌う「亥の子の歌(数え歌)」では、「大黒舞(だいこくまい)」で歌われる歌詞がそのまま引用されていたりすることからです。
大黒天と恵比寿は、それぞれ七福神の別の神なのですが、商売の街大阪、関西地域では恵比寿信仰が根強いことから、大黒舞の歌詞は「えびす様」の歌として定着したようです。
亥の子の過ごし方
「亥の子」の過ごし方としては、お祭り色が強く、子供達の健やかな成長を願い、地域の子供達のための行事として継承されているようです。お祭りでは、「亥の子突き」と呼ばれる丸い石に縄を何本もつけて、囃子唄に合わせて空中へ引き挙げては落として地面をつく習わしもあります。
「亥の子」成り立ちや背景を調べてみると、深い歴史や文化が垣間見えますよ。「亥の子」の過ごし方として、各地で行われている習わしや行事を分類すると以下のようになります。
・旧暦の10月亥の日を祝う
・作神様を祀る
・餅をつく
・土を打つ
・炉開きをする など
「亥の子」主な行事や過ごし方について詳しくご説明していきましょう。
◆亥の子餅を食べる
亥の子餅をご存じでしょうか? 亥の子餅は、もともと亥の子の祝いの時に食べられてきた餅です。「亥の月(旧暦10月)」の亥の日の亥の刻(午後10時頃)に食し、無病息災のまじないとした中国の俗信に基づいて、平安時代に宮廷の内部にて行われたのが始まりといわれています。
紫式部の『源氏物語』では、光源氏と紫の上の巻で、亥の子餅が登場する場面があります。古くは、大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖(あめ)の七種の粉を入れた餅をついたとか。
鎌倉時代に入り、武家にも同じような儀式が広まり、猪(いのしし)は多産であることから子孫繁栄を願う意味も込め、亥の子餅を食したと伝えられています。
江戸時代に入ると、亥の月の最初の「亥の日」を玄猪の日と定め、玄猪(げんちょ)の祝いともいわれていたそうです。そのため、亥の子餅(いのこもち)のことを玄猪餅(げんちょもち)とも言います。
江戸幕府では正式な行事として行われ、亥の日には大名が総登城して将軍家から祝いの物が配られたと記録に残されています。
今でも、11月になると各地の和菓子店では、イノシシの形状をしていたり、焼きごてでうり坊のような縞模様が付けられた亥の子餅が売り出されます。
◆亥の子突きをする
亥の子餅を食べる風習以外に「亥の子突き」を行う地方もあります。「亥の子突き」とは、子供たちが新しい稲の藁(わら)で作った「亥の子槌(づち)」や、石に縄を付けた「石亥の子」と呼ばれるものを使って地面をたたき、近所を回って、亥の子餅やお菓子、お小遣いをもらいにいくという行事です。
地面をたたくというのは、大地の精霊に活気を与えるためだと言われていますが、地方によって少しずつ異なっている点が興味深いところです。それにしても、収穫を感謝し来年の豊作を祈る神事であるのにもかかわらず、神が宿る地を亥の子石で打ちまわるとは、少々不思議な感じもします。
これには、田の神の性質に由来する古い言い伝えがあるようです。田の神は山の神と同一神であり、2月の亥の日に山から田に降りてきて、収穫が終わった亥の月の亥の日に山に帰っていくと信じられていました。
ですから、亥の子祭りの時期には既に田んぼに神様はおらず、空いた場所に悪神や邪神が入り込まないように、祓い清めるため地面を打つ行為をするという説です。
地面を叩くのは相撲で四股(しこ)を踏むのと同じく、大地を踏みしめることで邪神を祓う意味が込められています。また、地面を叩くことは、田畑を荒らす害獣であるモグラ退治を目的としていたという説もありますよ。
◆「炉開き」「炬燵開き」をする
風習として「亥の日」には、炬燵(こたつ)開きや炉開きが行われる地方もあります。これは、“亥”は中国の陰陽五行説おいて「水性」にあたることから,「火」に強い「水」にあたるとして「火災から逃れる」との縁起かつぎに起因します。
茶の湯の世界でも、この日を炉開きの日としており、茶席菓子として「亥の子餅」を用います。また、寒冷地では、亥の月の亥の日は、冬支度を始める日にもなっています。
「亥の子」は古くから収穫に感謝をし冬支度を始める日
日本人は、古来より四季折々の自然を楽しみ、神々を敬い恵みに感謝する習慣があります。「亥の子」もその行事の一つでもあり、歴史的文化にもなっています。
近年、地方の過疎化が深刻になり限界集落が社会問題にもなってきています。こうした問題は、日本人が大切にしてきた古くから伝わる習慣をも失うことになります。
都会の生活であっても、暦にある古い行儀を楽しむことによって、日本文化を愛する心豊かな生活をすることができるのではないでしょうか?
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