地震学者 大木聖子さんインタビュー
ひとつのことを追い続けられなくても、逃げた先で頑張っていると思えたらそれでいい
もっと直接的に人の役に立つ地震学者になりたい、そう決めたのがアメリカで研究員をしていた28歳のときです。地震学というと、多くの方は「防災につながる研究をやっている」というイメージがあると思いますが、実際は地面の上はあまり見ていなくて、波動解析など地中を対象に研究しているんですね。私の博士論文なんて5万年ぐらい経っても人類の防災には役立たないんじゃないかな(笑)。
人間がいてもいなくても、地球の真理を解明したいという探究心は科学の本懐ですし、地震がない国ではそれでもいいと思うのですが、日本の場合は人の命が関わってくる。
地震の予知はできなくても、コミュニケーションで被害を軽減することはできる
たとえば、大きな地震の後は余震が起きる… といったことは、地震学者の間では当たり前すぎてわざわざ自分が言う必要はないという感覚です。でも、その事実を伝えなければ余震で亡くなる人を防げない。地震がいつどこで起きるか予知はできなくても、コミュニケーションで被害を軽減することはできるんですよね。
「地上の人間や社会と対話する地震学の道を拓いていきたい」と大学院での指導教員に報告したところ、「フロンティアは楽しいぞ、でもコケると痛いぞ」と言われました。「コケるときも前のめりで!」と答えたら、「そこまでの覚悟があるならやりなさい」と応援してくださったことを覚えています。
学び続けるうちに変わった価値観。葛藤はあったけど、チャンスに賭けたかった
コミュニケーションの地震学に転向したと言うと聞こえがいいかもしれませんが、言い換えれば、物理の地震学から逃げたということ。
もうとてもじゃないけど、世界最先端の数学能力をもった人に太刀打ちできなかったんです。彼らは、数式を見ただけで「こういう磁場を表現しているんじゃないか」と想像できる。私には決定的にそのセンスが欠けていて、根性で何万通りも波形を見て勝負するしかなく。
「ひとつのことを続ける」ってすばらしいけれど、自分の脳が何に喜びを感じるのかも大事。私自身は子供時代を振り返ると、人に勉強を教えてあげることが好きでした。学び続けるうちに、自分のスキルアップを追求していくより「あなたが教えてくれたから私は命が助かりました」と言われたほうが遥かにうれしいなと、価値観が変わったんですよね。
タイミングよく、日本でも研究成果を社会にわかりやすく伝えるアウトリーチ活動に力を入れるということで、東京大学地震研究所でやりたかった仕事に挑戦できることに。
当初は2年限定のお試しポストでその先の保障はありませんでしたし、最先端物理の世界は2年離れたらもう追いつけません。一度全部捨てることになるなという葛藤はあったけれど、このチャンスに賭けたかった。結果的に「逃げた先で頑張ったぞ」と言えるからそれでいいと思っています。
転向してからは、研究広報に加えて文部科学省からの受託で防災教育も担当していました。「3.11(東日本大震災)」の前は需要がなくて、全国の自治体や教育機関に行くと「地震なんて起きないのに」とか「あんたみたいに暇じゃないんだよ、お嬢ちゃん」などと言われて相手にされず。
心の中で「このヤロー!」とは思っていましたが(笑)、現場に出れば子供たちや保護者、地域の方々に喜んでもらえるので大した苦労ではなかったんです。
大きな災害では、人間の最も弱い部分が出る。科学の限界はあるけれど、命を守りたい
キャリアの中でいちばん堪えたのは、やはり「3.11」でした。大きな災害というのは、人間の最も弱い部分をあぶり出すんですよね。
多くの犠牲者が出た無念、もっとできたことがあるのではないかという自分への悔恨を込めて「科学には限界があるが、地震学者として申し訳なく思う」という姿勢を示したところ、本当にさまざまなご意見をいただきました。
世間からの「お前のせいだ」とか「給料返せ」という苦情はごもっともですが、学術界からは「研究予算がつかなくなったらどうするんだ」といった批判も。
それでも事実を伝える姿勢を変えなかったのは、たくさんの方が亡くなっているのに、人々を混乱させてでも耳目を集めるような情報を出してしまおうという判断がなされた不正義が、どうしても許せなかったんですね。もっと迂回して自分の目指すゴールに行けばよかったのですが、それが私の弱さだったのかなと思います。
慶應義塾大学SFCの准教授に。「人間は扱われ方で変わる」を実感
結果的に広報の職務は解任となりましたが、東北へ通いながら全国各地の災害教育や海外プロジェクトにも参加。そのときのご縁で2013年からは慶應義塾大学SFCで教鞭をとっています。
学生たちと接していて感じるのは、「人間は扱われ方で変わる」ということ。SFCでは学生は「学生さん」ではなく「研究のパートナー」です。自分も研究の一端を担っているんだと感じられると、自立した大人の振る舞いになっていく。
もしリーダーを育てたければ、その人が教える立場になる機会を増やすと、上手に説明できるように自ら考え勉強し始めます。ただし、無理難題にならないような見極めと、任せた人がうまくいかなかったときは全部フォローする覚悟は必要ですね。
ほとんどの学生は、「何が自分の武器か知ってる?」と聞くと、私の考えとは違うことを答えるんです。本人は努力しないで普通だと思ってやっていることが、実はあなたならではの能力なんだよと気づいて指摘してあげると、私には思いもつかない方法で力を発揮し始める。これは仕事にもつながることではないかなと思います。
私生活では、35歳で同業の夫と結婚、36歳で出産しました。コロナ禍でリモート授業になり、息子が講義中に乱入してくることもしばしば(笑)。学会前は研究室に同伴で準備することもありますが、幸い学生たちが歓迎してくれて、男女かかわらず育児に参加する社会の流れとしては、そういう姿を見せるのもアリなのかなと。
とはいえ、小さいうちは日々ハプニングが起きます。イライラしていると身がもたないので子供が何しても「これはボケだ! 親はツッコミだ!」という気概で乗り切っています。
ひとりでは難しいけど、だれかのためなら動ける
日本では必ず、津波を伴う巨大地震や直下型の大地震が起こります。締め切りがない宿題のようなもので、自分ひとりで防災を意識するのはなかなか難しいですよね。たとえば、「実家の備蓄食料がそろそろ賞味期限切れだから贈ろう。ついでに自分のも買っておこう」とか「家具を固定するDIYを友達やパートナーとやってみよう」とか、まずはだれかのためになら動けるのではないでしょうか。
「命を守る」防災を真ん中に置いて対話すると、学校や会社の人間関係が改善したという声をよく聞きます。今後は防災を切り口に、みんなにとって居心地よく組織やコミュニティが持続的に発展していく、そういう仕掛けができたらと思っています。
2022年Oggi5月号「The Turning Point〜私が『決断』したとき」より
撮影/石田祥平 構成/佐藤久美子
再構成/Oggi.jp編集部
大木聖子(おおき・さとこ)
1978年、東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部 准教授。専門は地震学・災害情報・防災教育など。阪神・淡路大震災を機に地震学を志す。2001年北海道大学理学部地球惑星科学科卒業、2006年東京大学大学院理学系研究科にて博士号を取得後、カリフォルニア大学サンディエゴ校スクリプス海洋学研究所にて日本学術振興会海外特別研究員。2008年より東京大学地震研究所助教、2013年より現職。2012年『情熱大陸』に出演。主な著書に、『超巨大地震に迫る 日本列島で何が起きているのか』(纐纈一起教授との共著、NHK出版新書)、『家族で学ぶ 地震防災はじめの一歩』(東京堂出版)など。