尊王攘夷とは?
尊王攘夷(そんのうじょうい)とは、尊王論(そんのうろん)と攘夷論(じょういろん)の2つの思想が結びついた政治思想で、江戸時代末期に誕生しました。尊皇攘夷とも表記することがあり、下級武士を中心として日本全国に広がったとされます。
尊王攘夷は、江戸幕府から官学として保護された朱子学をベースにした思想のこと。なお、朱子学は中国で誕生した儒学の一つで、人の本性は善であるが気質によって聖と凡に分けられ、敬を忘れず知を磨き人格・学問を完成する考え方を唱えています。
そんのう‐じょうい
出典:小学館 デジタル大辞泉
1 中国で、周の王室を尊敬し、異民族の中国侵犯を打ち払ったこと。
2 (「尊皇攘夷」とも書く)日本で江戸末期、尊王論と攘夷論とが結びついた政治思想。朱子学の系統を引く水戸学などに現れ、下級武士を中心に全国に広まり、王政復古・倒幕思想に結びついていった。勤王攘夷。尊攘。
尊王論とは?
尊王論(尊皇論)とは、天皇を神聖なものとして崇める思想のことです。武家が政治を握る江戸時代に盛んになりました。
尊王論は、水戸学から発生した思想といわれています。水戸学とは、水戸藩主の徳川光圀が『大日本史』を編纂したことに端を発する学派で、儒学思想をベースに国学や神道、史学などを結合して形成されました。
そんのう‐ろん
出典:小学館 デジタル大辞泉
皇室を神聖なものとして尊敬することを主張した思想。古代の天皇神聖の思想が近世において展開し、幕末には攘夷論と結び、明治維新には王政復古論として現れ、明治以後の絶対主義的天皇制の基礎となった。
攘夷論とは?
攘夷論とは、外国を打ち払い、鎖国を守り抜こうとする排外思想です。江戸末期に誕生し、尊王論と結びついて討幕運動の基礎を作りました。
そもそも「攘」とは「払いのける」の意、「夷」とは異民族や未開の土地の人を指す言葉です。「夷」は単に異民族を指すこともありますが、「蛮夷(ばんい)」「夷狄(いてき)」といった言葉で使われるときは、異民族を侮蔑するニュアンスが含まれることもあります。
じょうい‐ろん
出典:小学館 デジタル大辞泉
江戸末期、外国との通商に反対し、外国を撃退して鎖国を通そうとする排外思想。のちに尊王論と合流して討幕運動の主潮をなした。
尊王攘夷運動とは?
尊王攘夷運動とは、天皇を尊び、外国を打ち払うことをスローガンに掲げた政治運動です。江戸末期、外国船の来航増加により鎖国の維持が危うくなったこと、また、外国への恐怖や幕府政治への批判なども相まって下級武士や公卿などの間で高まったとされています。
尊王攘夷の考え方自体は幕末に誕生したものではなく、本来の幕藩体制に根ざしたもののようです。しかし、幕藩体制が揺らぎ再強化する必要が生じたことから、徳川斉昭や藤田東湖などが中心となって唱えた後期水戸学と結びつき、尊王攘夷運動として確立されたと考えられています。
尊王攘夷運動が興隆した時代
尊王攘夷運動が台頭したのは、1858年に日米修好通商条約が締結されたことに端を発します。江戸時代は徳川将軍家が治世した時代です。ただし、本来将軍は日本の最上位の地位ではなく、あくまでも天皇から将軍としての地位を許されているという建前になっているため、地位を授ける天皇のほうが位としては高いと考えられていました。
日米修好通商条約を締結するときも、将軍はアメリカと直接条約を締結できず、朝廷から条約の勅許を得る必要がありました。1858年初、老中を上京させて条約締結の勅許を求めたものの、朝廷は攘夷を主張した公卿たちの意見を受け入れ、幕府の要請を拒絶します。
攘夷を主張して幕府の要請を拒絶するように朝廷に進言したのは、公卿たちだけではありません。将軍の継嗣問題で井伊直弼と対立していた一橋派の徳川斉昭や松平慶永なども、日米修好通商条約に対して異を唱えていました。
ハリスから繰り返し条約締結を迫られた幕府の大老・井伊直弼は、同年6月、ついに勅許を得ることなく調印に踏み切ります。井伊直弼の行動は水戸藩士をはじめ、尊王攘夷思想を持っていた武士や公卿を強く刺激しました。
井伊直弼は尊王攘夷運動に対して弾圧を加えますが、かえって運動を激化させることになり、1860年3月、浪士たちにより桜田門外の変で殺害されるという結末を迎えます。
尊王攘夷運動と公武合体運動
井伊直弼の死後、幕府は和宮を将軍・家茂に降嫁させたり、兵庫・新潟の両港を開港させたりと、さまざまな手段を用いて尊王攘夷運動の沈静化を図りました。しかし、尊王攘夷運動はますます激化し、長州藩では外国と締結した条約を破ってでも攘夷を果たすという過激な思想が生まれます。
一方、福井藩や土佐藩、薩摩藩では、朝廷と幕府が協力して政治をおこなう「公武合体」を唱えるようになりました。しかし、公武合体論の中でも、幕府を中心とした政治を目指す考え方と大名たちが共同で政治をするという考え方が対立し、やがて薩摩藩は公武合体運動を諦めて長州藩と協力して武力で幕府を倒す方針に切り替えます。
こうぶ‐がったい
出典:小学館 デジタル大辞泉
江戸末期、朝廷と幕府とが一致して外敵の難を処理し、同時に幕府の体制の立て直しを図ろうとした構想。大老井伊直弼 (いいなおすけ) の死後、老中安藤信正らが主張、和宮 (かずのみや) 降嫁が実現したが、のち、戊辰 (ぼしん) 戦争で討幕派に圧倒された。
尊王攘夷運動の中心人物
尊王攘夷運動の中心となったのは、長州藩や薩摩藩などの藩士や浪人、公卿たちといわれています。代表的な人物を紹介します。
吉田松陰
吉田松陰は長州藩士の子として生まれ、幼いときに山鹿流兵学師範の家の養子となり、軍学者として育てられました。9歳にして藩校・明倫館で兵学を教え、11歳で藩主に御前講義をおこなったといわれています。
吉田松陰は松下村塾を開き、高杉晋作や伊藤博文、山県有朋などのさまざまな人材を育てます。教育者としても優れた功績を残したものの、幕府が勅許なしに日米修好通商条約に調印したことに怒り、幕閣の暗殺計画を企て、30歳で刑死しました。
大久保利通
大久保利通は、薩摩藩の下級武士の子として生まれました。20歳のときに薩摩藩のお家騒動に巻き込まれて処分を受けますが、その後、許されて西郷隆盛と共に藩主・島津斉彬に登用され、藩内の尊王攘夷運動のリーダー的存在になります。
また、明治政府では岩倉使節団の副使を務め、帰国後は内務卿として日本の近代化に尽力しました。
三条実美
三条実美は、内大臣・三条実万(さねつむ)の子として生まれました。実万は安政の大獄による謹慎中に病死し、実美は若くして跡取りとなります。
実美は父の志を継ぎ、尊王攘夷派の公卿として、岩倉具視などの公武合体派と対立しながら勢力を強めていきました。また、明治政府では、右大臣や太政大臣などの要職を歴任したとされています。
尊王攘夷運動の流れや中心人物を復習しておこう
江戸時代から明治時代へと時代が移り変わる幕末期は、さまざまな思想や運動が興りました。尊王攘夷運動や公武合体運動もそれらの一つです。
流れや中心人物を理解すると、幕末期への理解も深まるはずです。近代日本の始まりを理解するためにも、今一度復習しておきましょう。
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