保育園経営者・高原友美さん インタビュー
仕事を“自分ごと”にできていないもどかしさ。限界までアクセルを踏みたかった
頑張れば、自分がやりたいことはきっとなんでも実現できる。30歳前後は、そんなことを思っていました。
当時の私は商社で働いていて、ブラジルの鉱物資源・アルミ担当。アマゾン川下流の工場を管理する数百億円規模のプロジェクトです。会社の利益だけではなく、日本の資源確保に貢献する仕事で、大きなやりがいがありましたね。
一方で、どこか仕事と一体化できないというか、“自分ごと”にできていないもどかしさも。がむしゃらにやっているつもりでも、最後の一歩を引いている自分がいて、タガが外れるくらいにはアクセルを踏み込めない。
これは会社に守られているからで、自分を追い込む環境をつくるしかないと退職を決意し、起業しました。
『まちのてらこや保育園』で、働く女性のサポートを
何をしようかと考えたときに、「女性が『女性に生まれてきてよかったな』と思える社会」をつくりたくて、大学では東南アジアやアフリカの女性たちのエンパワーメントをテーマに勉強していたことを思い返したんです。
育休から復帰してすごく大変そうにしている同僚や友達を目の当たりにして、日本の女性にもまだまだサポートが必要だと痛感。保育業界は今でこそ、デジタル化が少しずつ進んできたのですが、8年前はまだまだアナログでした。
たとえば保護者は、連絡帳に毎日前夜・当日の子供の状態を手書きして保育士とやりとりする、オムツも1枚1枚名前を書いて毎日持って行かないといけない。それらを改善し、とにかく働くお母さんたちが使いやすい保育園に特化しよう! というのが、『まちのてらこや保育園』を始めた動機です。
人と触れ合えるコミュニティの中で子供達を育てたい
選んだ場所は、自分も暮らしていた東京・中央区の日本橋。実は会社員最後の年、お客様との雑談ネタに使えたらいいなという出来心で「ミス中央区」に応募しまして(笑)。学生さんに交じって審査を受けたら、面白がってもらえたのかまさかの合格。
観光大使として地域のイベントに参加したり、江戸時代から続く老舗商店や町会の方々と交流したりするうちに、自分が接点をもっていなかっただけで、東京にもこんなに人と触れ合える場所があったんだと気づいたんです。このコミュニティの中で子供たちが育ったらすごく豊かなことだなと。
保育の素人で、マネジメントも未経験。そんな自分にも“できる”と信じた
保育園で働いたことはなかったので、まずは保育補助のアルバイトで現場を学びながら、物件探し。ある日、ピンと感じたビルがあって問い合わせてみたら、「前にも保育園用に探している人が来たけど、オーナーさんは断ってるから今回もダメだと思うよ」と。
それでも、あきらめずに企画書と経歴書をつくり、観光大使の活動写真も添えて「地域と密着した保育園をつくりたいんです」とプレゼンテーションしたところ、「そこまで言うんだったら応援するよ」とお借りできることになりました。
「手ぶら登園」やアプリを導入。前例のないことに苦難の連続も
町との縁がつながり、独立後1年がかりで2015年には認可外保育所を開園。忙しい保護者の方をサポートしようと始めた「手ぶら登園」では、オムツをネット通販で園に直接送っていただける体制にし、園内で汚れた衣服は洗濯・乾燥するので着替えなしでもOK。
また、連絡帳にはアプリを導入。慌ただしい朝に手書きする必要がなく、スマートフォンで通勤中にも記入できるように。同アプリを通じて、園での様子を毎日写真で共有しました。
ただ、保育の素人でマネジメントもやったことがない私にとって、当初は苦難の連続でしたね。保護者の方には大変喜ばれる一方で、保育士にとっては前例のないことばかり。
職員にもそれぞれの矜持があり、「私、保育園にスマホを触りに来てるわけじゃありません」と、なかなか理解してもらうのが難しく、人材確保には苦労しました。
もっとひとりひとりの声を聞いてフォローできればよかったのですが、当時は私も朝から夜まで保育士としてフルで現場に入り、園長兼社長業と兼務しないと回らなくて。
睡眠もままならず、軌道に乗るまでは会社員時代の貯金を切り崩す生活。先の見えないトンネルの中、全部投げ出して消えてしまいたいなとよぎった瞬間もあります。それでも朝になれば子供たちが登園するわけで、この子たちを元気にお返しするためにと、必死に一日一日を走り抜けてきました。
感謝の言葉に支えられ、2020年には認可保育所に移行
心の支えは、保護者の皆さんが「子供たちにこんなに愛を注いでくれて、私たちを支えてくれてありがとう」と、園を大切にしてくれたことです。
やがて保護者の方が園に対してどんなことを感謝しているか、私が自分の言葉で職員に伝えられるようになると、職員も自分たちの仕事の意義に気づき、率先して工夫してくれるように。
離職が減って職員が定着することで、職員の仕事の悩みにも寄り添えるので、さらに職員が育ってそこで生まれた余裕がまた次の改善につながって。
本当に少しずつ少しずつ光が射し、2020年には念願叶って認可保育所に移行することができました。
出産・子育てと仕事の両立、綱渡りの毎日
私自身がひとり目を出産したのは、33歳のとき。怒濤の開園2年目で保育士・園長・社長の3役兼務でしたから、事務室にベビーベッドを置いてすぐに復帰しています。ここ2年は心強い新園長の参画で、社長業に集中できるように。
「仕事が3分の1になったから、もうひとり育てられるかも?」と思い立ち、37歳でふたり目を出産。現在は、主に経営とバックオフィス業務を担っています。といっても、相変わらずスニーカーとポロシャツで奔走中(笑)。夫もベンチャー経営者なので、お互いのスケジュールをやりくりしつつ毎日綱渡りで生きています。
平日は子供たちと過ごせる時間が限られてしまい、仕事と家庭を両立できているのかわかりませんが、答えは数十年後に子供が教えてくれるのかなと。
「才能とは自分を信じる力である」新たな一歩を踏み出したい
次は、小学校づくりに携われたら面白いなと思っています。『まちのてらこや保育園』の子供たちは、今日どこの公園に行きたいか、あるいはお部屋に残って別のことをするのかも各々で決めています。
自主性を大事に、コミュニケーションが苦手な子も、一生懸命みんなと話し合って各自やりたいことを形にしてきました。でも小学校に入ると、みんな一斉に同じことを同じペースでやらないといけない。学校教育も少し変わっていいんじゃないかと。
またうまくいかないことも悔しい思いもいっぱい経験するだろうけれど、自分の中にまだやりたいことがたくさん残っている感触がうれしいですね。
背中を押してくれるのは、杉村太郎さんの本で出会った「才能とは自分を信じる力である」という言葉。
やりたいことがあっても自分には無理… と思ったら、その時点で可能性はゼロ。私には特別なスキルがあるわけではないのですが、困難なことでも「私にもできるかもしれない」と思える力があります。可能性を拓く一歩をまた踏み出していけたらと思っています。
都心にありながら地域とつながる保育で消費者担当大臣賞を受賞!
「まちのみんなが先生で、まち全体が保育園」を合言葉に、地域で子供たちを守り育んでいく社会を目指す『まちのてらこや保育園』。第15回キッズデザイン賞(2021年)では、消費者担当大臣賞を受賞! 地域の職人の技、産業や人を学ぶことを取り入れ、つながりを伝える保育のあり方が注目されている。
2023年Oggi1月号「The Turning Point〜私が『決断』したとき」より
撮影/石田祥平 構成/佐藤久美子
再構成/Oggi.jp編集部
保育園経営者 高原友美(たかはら・ともみ)
1984年、岡山県出身。『まちのてらこや保育園』代表。お茶の水女子大学卒業後、2007年より三井物産に勤務。金属資源の輸出入、ブラジルでの金属資源開発案件などを担当する。2014年4月に退職し、6月に株式会社サムライウーマンを設立。2015年9月に『まちのてらこや保育園』を開園。地域の中で子供たちを見守り、育む保育を実践。2020年4月に認可外から中央区の認可保育所に移行。第32代中央区観光大使・ミス中央でもあり、地域活動にも積極参加。