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2025.01.17

「大政奉還」とは政権を天皇に返上すること|理由や流れをわかりやすく紹介

大政奉還とは、政権を天皇に返上することです。時の将軍、徳川慶喜により、1867年10月14〜15日に二条城で行われました。なぜ大政奉還が実施されたのか、また、実施に至る流れについて、わかりやすく紹介します。

大政奉還とは?

大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸幕府の将軍が政権を朝廷(天皇)に返上したことです。1867年10月14日、第15代将軍・徳川慶喜は政権返上を朝廷に申し入れ、翌15日に受諾されました。

大政奉還は、武家政治の終わりも意味します。鎌倉幕府以来約700年、天皇から将軍職が任命される形で武家による政治が続いてきましたが、大政奉還により明治天皇の手に政権が返還されました。

たいせい‐ほうかん
政権を天皇に返上すること。慶応3年(1867)10月14日、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜とくがわよしのぶが政権を朝廷に返上することを申し入れ、朝廷が翌15日それを受け入れたこと。これによって鎌倉幕府以来約700年続いてきた武家政治は終了した。

出典:小学館 デジタル大辞泉

大政奉還が実施されたのは二条城じゃない?

大政奉還の舞台となったのは、京都にある二条城とされることが多い傾向がみられます。しかし、実際は城内で政権を天皇に返還したのではないようです。二条城は徳川慶喜が家臣たちと話し合い、大政奉還の意思を示した場所だと考えられています。

なお、二条城は1603年に徳川家康が築城した建物です。天皇が暮らす京都の御所を守る拠点として、また、将軍が上洛した際の宿泊所とするために建てられました。1994年には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されています。

大政奉還によって終了した武家政治

大政奉還により、武家政治は終焉を迎えました。武家政治とは、文字通り、武家による政治です。一般には、征夷大将軍として武家が「幕府」を開いた鎌倉時代・室町時代・江戸時代の政治を指します。

幕府とは、将軍が政治を行う場所や、将軍を中心に武士が政治を行う仕組みのこと。一方、天皇が政治を行う場、天皇を中心として皇族や貴族が政治を行う仕組みを「朝廷」と呼びます。

奈良時代や平安時代は朝廷主体の政治、鎌倉時代から江戸時代までは幕府主体の政治とされていますが、武士が政治の実権を握っていた時代も朝廷の勢力がなくなっていたわけではありません。

たとえば、鎌倉時代には後鳥羽上皇が朝廷に政権を取り戻そうと、承久の乱を起こしました。また、鎌倉幕府が倒れた後は後醍醐天皇が建武の新政を行い、天皇中心の政治に戻そうと画策しましたが、2年あまりで失敗に終わっています。

二条城を俯瞰で撮影した写真
(c)AdobeStock

なぜ大政奉還は必要だったの? 歴史の流れをおさらい

約700年もの長きにわたり続いた武家政治は、江戸幕府の第15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が実施され、終わりを迎えました。なぜ大政奉還が必要だったのか、歴史の流れを追ってみていきます。

桜田門外の変と公武合体運動

江戸幕府の大老となった井伊直弼は、1858年、天皇の許可を得ず強引に日米修好通商条約に調印しました。これにより、天皇を中心とした国家を作ろうとする「尊王論」や外国勢力を打ち払おうとする「攘夷論」が高まり、武士や公卿から幕府を非難する動きが活発化します。

1860年、江戸城の桜田門付近で、尊王攘夷を掲げる水戸・薩摩の浪士たちにより井伊直弼は殺害されます。この桜田門外の変により、幕府の威信は揺らぎました。老中である安藤信正は朝廷と協力する「公武合体」により幕府の権威を回復しようと、将軍の妻の座に孝明天皇の妹である和宮を迎えました。

薩摩藩・長州藩による討幕運動の高まり

幕府の思惑は外れ、和宮の降嫁は朝廷を利用した政略結婚とみなされ、かえって尊王攘夷運動を刺激することに。尊王攘夷運動の中心となった長州藩は、朝廷内部の尊王攘夷派の公家と連携し、幕府に攘夷の実行を迫ります。

一方、薩摩藩と会津藩は公武合体派の公家と手を結び、長州藩から政治の主導権を奪おうとします。しかし、一時は敵対関係にあった長州藩と薩摩藩が、1866年に薩長同盟を結び、倒幕という共通の目的のために協力することを誓いました。

大政奉還を盛り込んだ坂本龍馬の「船中八策」

反目していた長州藩と薩摩藩を仲介したのが、土佐藩出身の坂本龍馬です。坂本龍馬は幕府を倒し、新しい国を作るためには、幕府と対抗できる力を有する両藩の協力が不可欠と考えました。

また、坂本龍馬が土佐藩船中で示したとされる時務策『船中八策(せんちゅうはっさく)』の中では、二院制の議会政治や大政奉還などの案が論じられたとされています。

せんちゅう‐はっさく【船中八策】
慶応3年(1867)坂本竜馬が起草させた新国家構想。長崎から上洛中、土佐藩船中で後藤象二郎に示したものとされ、朝廷への政権奉還、二院制議会の設置、外国との不平等条約の改定、憲法の制定、海軍の拡張など8か条からなる。後にこの構想は、大政奉還、明治政府の五箇条の御誓文となって引き継がれた。

出典:小学館 デジタル大辞泉
虫眼鏡
(c) Adobe Stock

新しい世の中を求める「ええじゃないか」の声

1867年から翌年にかけて、民衆の間で「ええじゃないか」とはやし立てて踊り歩く騒ぎが起こります。伊勢神宮のお札が天から降ってきたという噂が広がり、京都や大阪、江戸などの都市部や農村で多くの人々が乱舞しました。江戸幕府が崩壊寸前だということを庶民も感じていたということがうかがえます。

山内豊信が徳川慶喜に大政奉還を進言

坂本龍馬は、大政奉還の案を土佐藩の政治の実権を握っていた参政・後藤象二郎に伝えます。後藤象二郎は前土佐藩主の山内豊信(容堂)に大政奉還を進言し、また、山内豊信によって徳川慶喜に建白されました。

なお、山内豊信が徳川慶喜に進言したのは1867年10月3日、徳川慶喜が大政奉還を実施したのは同年10月14日です。わずかな期間で幕府滅亡につながる重大な決断をしたことからも、幕府そして日本が非常な混乱にあったことがうかがえます。

王政復古の大号令の発令

1867年12月9日、薩摩藩や長州藩、公家などにより「王政復古の大号令」が発令されました。王政復古の大号令とは、天皇による政治に戻ったことを示す宣言です。

王政復古の大号令により幕府が消滅しただけでなく、従来の朝廷の制度である摂政や関白なども廃止され、新たに総裁・議定・参与の三職が置かれることになりました。

大政奉還の流れを確認しよう

大政奉還は、日本の歴史の大きな転換点でもあります。単に政治の実権が幕府から朝廷に移ったというだけでなく、諸外国との関わりや諸藩の立ち位置なども大きく変わりました。

大政奉還の流れを確認することで、明治政府の成り立ちや日本の近代国家としての歩みも理解しやすくなります。ぜひ一度、流れを確認しておきましょう。

メイン・アイキャッチ画像:(c)Adobe Stock

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