フォレンジックサービス企業・執行役員/公認会計士・那須美帆子さん
キャリアのスタートはNYのグローバル会計事務所での監査。当時、アメリカの会計基準は日本より10~20年進んでいると言われ、ビジネスの最先端の地で働いてみたいという憧れがありました。
現実は、日中はコピー取りなどの使い走り、夜中は時差のある日本とのやりとりに追われ、キラキラした理想とはほど遠い毎日(笑)。それでも、女性の公認会計士が少ない日本に比べ、NYは多様な人々が活躍するフラットな環境だったんです。

外資系金融機関への転職後は資金調達や投資業務、ファンド立ち上げなどにも携わりました。仕事はハードでしたが、金融市場のダイナミズムを肌で感じながら、キャリアを積み上げていきました。ただ、市場はいつまでも好調ではいられません。リーマン・ショックの少し前、上司から「この年はパーフェクトイヤーだった」と話がありました。完璧の次に来るのは、停滞か下降か。嫌な予感は的中し、2008年の金融業界は大きく揺れました。
不正によってだれも不幸にしたくない。厳しい言葉も受け止め、真摯に事実に向き合う
混乱する市場を目の当たりにし、金融の現場から一歩引いて、市場の公正性を守る側に立ちたいと考え、30代半ばで金融庁の証券取引等監視委員会へキャリアチェンジ。ドラマでいうと『半沢直樹』で片岡愛之助さんが演じた黒崎検査官のように、市場の不正を監視する役割です。私の場合は上場企業の会計不正事案を担当することになりました。
不正の兆候を見抜くカギはキャッシュフローの悪化、監査法人の交代、タレコミ情報など多岐にわたります。そして、財務諸表は企業の通信簿。見た目の成績だけでなく、「何が書かれていないのか」その行間を読み取りながら、ときには徹底的に資金の流れを追うこともありました。

当時、世界的なニュースにもなった事件にも遭遇し、5年弱の経験から見えてきたのは、企業不正・不祥事の背景には、経営トップの姿勢や組織の文化が深く影響しているということです。平常時から企業をサポートする必要性を痛感し、再び民間へ。いずれニーズが増えていくであろう不正・不祥事対応やリスク管理を専門とするフォレンジック(不正調査・証拠解析)の分野へと進みました。
現在は、フォレンジックサービスを提供するPwCリスクアドバイザリーでパートナーを務め、実務も担っています。主な業務に、平時のリスクマネジメントと不正発覚後の調査や危機対応というふたつの側面があります。不正の種類には、会計不正、品質偽装、贈収賄、カルテルや談合、サイバー犯罪、そして人権問題などがあり、ひとたび発覚すると企業の存続がかかることも少なくありません。
私たちができるのは、膨大な情報から迅速に事実を整理し、適切な解決策を示すこと。不正調査は単に問題を暴くのではなく、企業が健全な経営を取り戻すためのプロセスでもあります。根本的な問題に向き合い、組織を立て直そうとする企業は、むしろ以前より強くなる。
一方で、経営者が場当たり的な対応に終始すれば、取り返しのつかないダメージになってしまう。その分岐点となるのが、初動対応です。
不正調査には、さまざまなステークホルダーが関わります。企業の経営陣、従業員、株主、取引先、監査法人、規制当局、メディア――それぞれに事情や思惑がある。経理部長が独断で実行したとされる会計不正は、実は社長の指示だった… そうした裏の部分もフェアに明らかにするのも、私たちの役割です。
調査の現場で心がけているのは、ときにフレンドリーに接し、必要以上に深刻な顔をしないこと。不正が発覚したクライアントの関係者は先が見えず、不安を抱えて神経をすり減らしています。そこで追い詰めてもよい結果にはなりません。冷静な判断ができなくなってしまう。「大丈夫ですよ」のひと言が相手の緊張を解き、必要な情報を引き出す助けになることもあります。
一方、クライアントが感情をあらわにすることも珍しくありません。もし調査中に怒り出す人がいたらむしろチャンス、「核心に近づいてきた」と捉えます。厳しい言葉を浴びせられることもありますが、真意を冷静に見極め、毅然と対応することが重要です。
仕事の楽しさを一段階上げた、”ほかの誰かのために3割の時間を使う”こと
そんな人間の機微に向き合う仕事を続ける上での息抜きは、時間を忘れて伝統的な世界観に浸ること。そのひとつが歌舞伎です。400年も前から続く人情噺やときには身もふたもない話など、人って不完全で昔から変わらないんだとホッとできるというか(笑)。自分で着付けをして、着物で劇場に足を運ぶこともリフレッシュになっていますね。

また、約70人いるチームメンバーに加え、他部署との自由参加での食事会も随時企画しています。タフな仕事をやりぬくにはチームワークが必須。社外の専門家も含め連携し、ワンチームで動けるようにしています。ここから先は自己研鑽だけでなく、ほかの誰かのために3割の時間を使おう。そう決めたことでグッと輪が広がり、仕事の楽しさも一段階上がった気がしています。
近年、ガバナンスや倫理観に対する社会の意識が高まっています。万一読者の方が不正に直面したとき、大谷翔平選手の対応は参考になるかもしれません。
昨年の不祥事に巻き込まれた際、彼は即座に弁護士に状況を共有し、スマートフォンを提出したようです。その後の記者会見では話すべきことと話すべきでないことを明確に分け、冷静に説明責任を果たしました。これは、危機管理の観点からも理想的な対応。
企業などの組織で働く皆さんも不祥事に巻き込まれることがあるかもしれませんが、慌てることなくご自身の心持ちを大切にして誠実に対応していただけたらと思います。
最強のディフェンスは、人へのリスペクトと信頼関係
危機対応の仕事は守りのイメージが強いのですが、本分は企業の成長を支える黒衣。常に相手をリスペクトし、いい人間関係をつくることが、リスク回避の第一歩であり、最強のディフェンスなのだと思います。

一時的に業績や株価が下がっても、適切に対処し信頼を回復できれば、再び立ち直ることができる。かつて上場廃止の危機を乗り越えたクライアントが「もう那須さんは来なくていいようにがんばるね」と笑ってくださるのは、その証かもしれません。
ずっと変わらないのは、「不正によって不幸になる人をつくりたくない」という思い。不祥事は経営の在り方や組織風土を見直す大きなきっかけになり、次の成長の礎にもなりえます。今後は資本市場を守るという使命を超えて、社会全体が誠実な方向へ向かうために、自分にできることを積み重ねていけたらとも感じています。企業の再生を支えることは、巡り巡ってよりよい社会につながると信じて、これからも真摯に取り組んでいきたいです。
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2025年Oggi4月号「The Turning Point〜私が『決断』したとき~」より
撮影/石田祥平 構成/佐藤久美子
再構成/Oggi.jp編集部
那須美帆子(なす・みほこ)
PwCリスクアドバイザリー合同会社 執行役員・パートナー。不正会計・不祥事事案の調査業務を主とするフォレンジックサービスに従事。公認会計士として米国大手会計事務所にて会計監査業務・米系投資銀行におけるアドバイザリー業務などに従事。2009年から2013年まで金融庁証券取引等監視委員会にて、国境をまたぐクロスボーダー事案・巨額粉飾事案に係る開示不正事案調査を担当。その後、大手監査法人を経て現在に至り、不正調査のみならず企業が健全な経営を維持するための再発防止策にも尽力する。