温度が感じられない、解釈が難しい。
それだけに、面白いものになるだろうと感じていました
カズオ・イシグロ氏はイギリスを代表する作家のひとり。生まれは長崎県で、5歳の頃にイギリスへ移住し、20代で作家デビュー。小説『遠い山なみの光』が鮮烈なデビュー作といわれるのは、その作風――過去の回想を静かに語りながら、社会に対して問いかける――が、顕著に表れているものだから。待望の映画化で主演に抜擢されたのが、この世界観に見事にマッチした広瀬すずさんでした。
広瀬すずさん(以下、広瀬):映画化にあたって、石川 慶監督から丁寧なお手紙をいただきました。それは、監督の温かい人柄が伝わるもので、主演をお受けするのに迷いはありませんでした。ところが、いざ台本を読んでみると、そこから温度が何も伝わってこない…これはいい意味で、なのですが。これをどう受け止めるのが正しいのか、何がそこから見えてくるのか、解釈が難しくて。それだけに、面白いものになるだろうと感じていました。
それでも、物語の女性たちが生きた1950年代の、戦争に対する思い、置かれた環境に対する反発心は、彼女たちの言動を通して感じることができます。この役をやりたかったのは、それらを私の心と言葉を通して伝えられたらいいな、と思ったからです。

――初めは「難しい」と思っても、映画として完成してみれば、また印象も変わったのではないでしょうか。
広瀬:初めは、台本から不穏な空気がずっと流れていて、独特の空気感がある作品になるだろうと思っていました。そのぞくぞくする感じは、ホラーなのかと思うほど(笑)。でも、台本では想像しきれない部分はあります。だからこそ、戦後の長崎にいた悦子の人生と台本に素直に、ピュアに演じたつもりです。そして完成してみたら、(吉田羊さんが演じた)その後の悦子を見て、想像と違った仕上がりになっていて。そういう意味では、私ひとりで悦子という人物をつくりあげたわけではないのだと、改めて感じています。
痛みや苦しみ、怒りが混ざった、
言葉では言い表せない塊が
――のちにイギリスに渡った悦子(吉田羊)も、物語をつづる重要な人物ですが、広瀬さんから悦子はどのような人物として映ったのでしょう。
広瀬:私が演じた長崎時代の悦子を、私自身はポジティブにとらえて生きたつもりです。けれど、(映画が完成して)イギリスに渡ってからの悦子を見て、すごく心が痛みました。戦後、変化の多い時代を生きながら、自身の記憶があいまいになったり、変化したりするのを目の当たりにして、胸がうっ…となって。痛みや苦しみ、怒りなど、すべての感情が混ざった、言葉では言い表せない塊が、心の中にあるような感じ、とでもいうのでしょうか。

――そんな不穏なムードがありつつも、映像は独特で絵画のような美しさがありました。
広瀬:今回は、ポーランド人カメラマンのピオトルさんの目線が面白く、独特だったことが大きいと思います。日本人とは異なる感性と捉え方で、同じものでも違う角度から見ているようでした。このような感性のぶつかり合いは初めてです。いい刺激をもらいました。
好きな場面はたくさんありますが、万里子さん(悦子が知り合った佐知子の娘)や猫との出会いや、蜘蛛が出てくるシーンなどが、頭に浮かびます。どちらも、純粋な子供でありながら心が読み取れない不思議さがあり、何か意味があるんじゃないかと考えてしまう…。万里子さんの繊細さを感じさる、美しい映像でした。

14歳から仕事をしてきて、
自立は早かったかもしれないけれど…
――今回の異色の挑戦をとおして、広瀬さんは自身にどんな気づきや変化を感じているのでしょうか。
広瀬:二階堂ふみさん(佐知子役)との共演で、「ふみちゃんは、やっぱりスゴい」と改めて感じました。俳優を本格的にやる前の私は、お芝居にあまり興味がなくて、人前で泣いたり怒ったりするのは、なんだかおかしいなんて思っていました。それが、ふみちゃんの映画『ヒミズ』を観て、こういう作品ならやってみたいかも、と。それが今につながっています。だから、共演できることはとてもうれしかったし、私にとっては今も大きな刺激です。今回の再会では、お互いの動物好きの話で盛り上がり、動物病院やホテルの情報交換をしたりして。楽しい時間でした。
それからたくさんの出会いを重ね、経験を積みながら、新しい役をいただくたび、「今の年齢」「今の自分」だから出会えた仕事なんだ、と巡り合わせのようなものを感じます。自分で選んで道を進んでいるというよりは、役に導かれている感覚。きっと、いくつになっても、変わらないと思います。そう思うと、何歳でもその時なりの自分、そのときなりの役を楽しめる。そうしながら、「いつのまにか」自分が変化したり、成長したりしていくのではないでしょうか。
――そのとき、どんな大人の女性になっていたいと考えますか。映画『遠い山なみの光』の根底には、女性の自立もテーマとして流れていますが。
広瀬:(映画で演じた)悦子は佐知子さんとの出会いによって、それまで抑えていたこと…憧れや好きだという感情を、自覚するようになりました。自立には時間の経過が必要だけれど、自分の欲することを自覚するだけでも、自分の足で立っている感覚にはなってくるものではないでしょうか。
私はといえば、14歳から仕事をしてきて、身の回りのことを自分でやってきて、自立が早かったかもしれません。それも、自分からというより周囲からそう言われることで、より意識していたというか。年齢を気にすることがなかったと言いましたが、人それぞれのタイミングで、感性で、自立を実感できればそれでよくて、人と比べることでもないのだろうと思います。
そして、好きなことをやって、常に心豊かに、人生を楽しんでいけたら。それが私の理想の年の重ね方です。でも…。これからはもうちょっと、ボディのコントロールを頑張りたいかな。やらなきゃやらなきゃと思いながら、つい行動に移すのを先延ばしにしてしまうので(笑)。
広瀬すず
俳優
ひろせ・すず 1998年生まれ、静岡県出身。ドラマ『幽かな彼女』(2013年)で俳優としての活動を開始し、映画『海街diary』(2015年)で数々の新人賞を受賞。映画『ちはやふる』(2016年)で映画単独初主演。第40回日本アカデミー賞では、『ちはやふる-上の句-』で優秀主演女優賞、『怒り』(2016年)で優秀助演女優賞をダブル受賞。2019年にはNHK連続テレビ小説『なつぞら』でヒロインを務める。近作には、第14回TAMA映画賞最優秀女優賞、日本アカデミー最優秀主演女優賞を受賞した『流浪の月』(20221年)、第78回毎日映画コンクール女優助演賞を受賞した『キリエのうた』(2023年)、『片思い世界』(2025年)などがある。
映画『遠い山なみの光』
1980年代、イギリス。日本人の母とイギリス人の父の間に生まれロンドンで暮らすニキは、大学を中退し作家を目指している。ある日、彼女は執筆のため、異父姉が亡くなって以来疎遠になっていた実家を訪れる。そこでは夫と長女を亡くした母・悦子が、思い出の詰まった家にひとり暮らしていた。かつて長崎で原爆を経験した悦子は戦後イギリスに渡ったが、ニキは母の過去について聞いたことがない。悦子はニキと数日間を一緒に過ごすなかで、近頃よく見るという夢の内容を語りはじめる。それは悦子が1950年代の長崎で知り合った佐知子という女性と、その幼い娘の夢だった。
1950年代の長崎に暮らす主人公・悦子を広瀬すず、悦子が出会った謎多き女性・佐知子を二階堂ふみ、1980年代のイギリスで暮らす悦子を吉田羊、悦子の夫で傷痍軍人の二郎を松下洸平、二郎の父でかつて悦子が働いていた学校の校長である緒方を三浦友和が演じた。2025年・第78回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門出品。2025年9月5日全国公開
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撮影/山根悠太郎(Tron) スタイリスト/Shohei Kashima(W) ヘア&メイク/Mai Ozawa(mod’s hair) 取材・文/南 ゆかり