【田邊優貴子】さんインタビュー
理屈っぽい私に、「理由なんてない」という圧倒的な感覚の存在を、南極の大地が教えてくれた
理学の博士号を取得したのは、30歳のとき。休学や大学院編入などで少し遠回りをしていたので、友人たちがバリバリ働いている間も自分はずっと学生で、これからどうなるんだろうと悶々としていましたね。アカデミックの世界では、博士になっても大学の研究所に残れるのは10〜20%程度。同じ分野のポジションに30代〜40代の人がいると、20年、30年は席が空きません。南極を専門にしていたので可能性はますます狭まって、もっと研究範囲を広げたほうがいいのかな、企業に就職したほうがいいのかなと考えながら、「このまま進んではいけないんじゃないか」という迷いも抱えていました。
将来どうしたいのかはっきりしない私を変えてくれたのは、人生で2回目に訪れた南極でした。船からヘリで向かう道中、白く広大な大陸が見えた瞬間に体中の血がワーッと沸き立つ感覚があって。自分はなんのために工学部から理学系に転向し、苦労してまで学位を取ったのか。南極で大好きな自然を相手に研究するため、という初志を思い出させてくれたんですね。常に「物事には何か理由がある」と理屈っぽいところがあるのですが、もうそんなものをポンと飛び越えて「理由なんてない」という圧倒的な感覚を呼び起こしてくれた。この感動を生きる原動力にしたいなと思って、心が決まりました。
南極での調査
南極の内陸では、トイレもお風呂もないところでキャンプをしながら60日ほど調査をするのですが、かなり風が強くてひどいときは1週間も暴風が続きます。ときにはマイナス40度にもなりますから寒いのはもちろん、ポールとテントが擦れるキキーッという音や、テントが飛ばされてしまうことへの恐怖もあって、まともに眠れなくて。やっと外に出て調査ができるのは、数少ない穏やかな天気の日。そのころには心身クタクタです(笑)。
湖に潜る調査では、まず分厚い4mの氷に直径25cmくらいの穴を開け、貫通させるのに4時間、さらに人が入れる大きさにするのに4日かかります。潜るときはライフロープがからまらないように、基本はひとり。湖は全面氷でふたをされていて、1か所しか穴を開けていません。ここに戻って来られなかったら死ぬんだな…という怖さはあるものの、進むうちに、「この先に何があるんだろう?」という知的好奇心が勝ってしまうんですね。湖から上がってくると、すぐにドライスーツが凍り始めます。フードを脱いだら、今度は髪が上に引っ張られたまま固まって。テントまで戻るときには、スノーモービルにまたがったままの形で体が凍る(笑)。テントに着いてストーブで解凍される…という、マンガみたいな姿になりながら続けています。
役に立つことだけに価値があるわけじゃない。ただ心が動くほうへ進む道があってもいい
世界でも南極の湖で潜る研究者は、10人いるかいないか。海と違って閉じている湖は、小さな惑星というか、そこだけで豊かな生態系をつくっている神秘性にひかれています。水は驚くほど透明で不純物がない。南極の湖の周りには土がなく、魚などの動物も存在しないので栄養分がほとんど溶け込んでいません。それなのに、湖底には草原や森のような世界が広がっていて。通常は陸上で少しでも変化があると湖に流れ込んで、中の環境が変わってしまうのですが、かく乱する人間もいないため、まるで30億年前のような原始的なエコシステムが存在していることは大きな発見でした。湖底の植生群はどこから栄養をとって育つのか、少しずつ解明しています。
37歳から1年半南極越冬隊に参加したときは、33人のメンバーで滞在しました。だんだん地球上でここしか人がいないんじゃないかという気になって、ネットニュースも別の星の出来事に見えてくるように。同僚とは仕事も生活も共にしているのでどうしても閉塞感がありますし、負荷は高い場所です。だからこそ、積極的に声をかける。何かあったときはちゃんと全員で相談することを心がけています。知らないところで何か起きていると、みんなが不安になってしまうので。
30代でやってよかったことのひとつに、本の出版があります。それまで研究といえば学会の中で発表して業績を出すという形で、一般の方にお伝えできるのは貴重な機会だと感じました。特に小学生から大学生までの子供や若者たちの「こんな世界があるんだ!」というキラキラした目を見ることができて。
一方で、「将来、こういう職業につきたいと話したら、それが社会にとってどう役に立つんだと大人に言われて悩んでいます」という声をよく聞くようになりました。私自身、人から「なんの役に立つの?」と言われた経験があります。学問や芸術って、何十年も後に実利になることはあるけれど、そもそも「面白い」とか「既成概念を壊す」というだけで価値があるのではないかと。もちろん実利的な仕事は必要。でも、効率よくお金を生んで役立つことがすべてだと思い込んでしまっている社会で、純粋に心が動くほうへ進む道もあるんだよ、と提示できるのが私の立場なのかなと思っています。伝えることで、子供たちの物の見方を変えていきたいですね。
私にとってはどんな言葉よりも人よりも強いのは、自然が教えてくれること。つい写真や映像で知った気になってしまうけれど、実際に自分の目で見ると「まったく写しきれない」とわかるんですね。フィールドでは知覚で状況を読み取って判断し、調査を進めたり、自分の命を守っています。日本に帰ると情報があふれていて、浴びるだけで自分のものにならないことも多々。情報が多すぎて何をすればいいかわからないときは、あえて遮断して、感情が出るような状況にうまく自分をもっていくといいのかなと思っています。
動物学者の夫とは事実婚です。ずっとこの名前で生きてきて、名前が変わるのは仕事上も不便ですし、お互い働いていてどちらが扶養するわけでもないので入籍のメリットが感じられないなと。ふたりとも海外にいる期間が長く、1年半以上会えなかったこともあるくらい(笑)。理解があって研究にも自由に集中できますね。
実は、私には遺伝的に脊髄小脳変性症になる可能性があります。運動神経にマヒが出て、動けなくなったり話せなくなったりする難病で、母と伯父たちが50歳前後で発症しています。ただ、事前に確かなことはわからないので考えても仕方のないこと。逆にプラスの力になっていて、若いうちに「自分の持ち時間には限りがある」とはっきり自覚できたからこそ、好きなことに没頭できているのかなと。定年までずっと研究を続けることが、夢です。
人生を変えた心震える絶景!
田邊さんの著書『北極と南極 生まれたての地球に息づく生命たち』
田邊さんがその目で見て、足で探し、肌で感じた北極・南極の生き物とは? 氷の世界で暮らすペンギンやアザラシ、極地に咲く色とりどりの花、そして田邊さんが世界で初めて発見した、南極の湖底に広がる原始地球のような幻想的な光景を、本人が撮影した美しい写真とともに紹介。愛らしくもたくましい自然の姿に、癒されながら力が湧いてくる一冊。¥2,400/文一総合出版
●この特集で掲載した商品の価格は、本体(税抜)価格です。
Oggi6月号「The Turning Point〜私が『決断』したとき」より
撮影/石田祥平 構成/佐藤久美子
再構成/Oggi.jp編集部
田邊優貴子 (たなべ ゆきこ)
1978年、青森県生まれ。国立極地研究所・助教。バックパッカーとして世界を旅した大学4年生のとき、真冬のアラスカに魅せられ、極地をフィールドにした研究者となる。これまで南極で7回、北極で8回野外調査に参加。その生態系を研究しながら、地球やそこに息づく生命の不思議、素晴しさを伝えるべく講演や執筆活動を行っている。2014年文部科学大臣表彰 若手科学者賞受賞。著書に『すてきな地球の果て』(ポプラ社)がある。