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2018.12.10

【私が決断したとき】傷ついた人の希望になる「看護の力」を信じる|手術室看護師・白川優子さん

各界の第一線で活躍する先人たちは、どんなターニングポイントを迎えてきたのか。「国境なき医師団」の看護師として紛争地や被災地で命と向き合う白川優子さんにお話をうかがいました。

【白川優子】さんインタビュー

医療では戦争を止められない。それでも、そばにいるだけで傷ついた人の希望になれる「看護の力」を信じる

白川優子さん

国境なき医師団(MSF)に入りたい。7歳のころから抱えていたその思いが募っていた20代半ば。夢はあれど、英語という大きな壁を前に、乗り越えられるのか否か迷っていました。看護師としては中堅の域に入り、年齢を考えれば新しい道へ踏み出すには勇気がいります。今のままがラクかもしれないとも思っていました。その姿を見ていた母が「10年たっても思いは変わらないんだから、行きなさい」とポンと背中を押してくれた。もしその言葉がなければ、「夢は叶わないんだ」とくじけていたかもしれません。「人生のピークは40歳あたりに見なさい」とも言われましたね。それまでは20代が最高でなくちゃいけないと思っていたし、40代なんて余生…くらいの思い込みがあったので、すごく新しい考え方だなと。焦りがちな私が、しっかり準備して40代で人道支援のプロになれたらいいと思えたきっかけでした(白川優子さん)

留学資金を貯めるために3年間産婦人科で働いた後、29歳でオーストラリアへ。移民の多い国で、さまざまな民族衣装の人が混在して、差別も偏見もなく共存している。世界にはこんなところがあるんだと驚きました。まずは語学学校で学んでから大学に入学しましたが、私には「英語で看護を学び直す」ということに意味があったんですね。当時は貧乏生活で、たった3ドルのコーヒーを買うか悩む日々。2年目は少し余裕ができて訪問介護のアルバイトを始め、毎日コーヒーが買えるようになりました(笑)。人には寛容ですが成績には厳しく、留学生6人中、卒業できたのは私ひとり。後がない…という必死さはだれよりもあったのかもしれません。

就職した後も含めて、オーストラリアでの7年間をひと言で表すなら「愛」。思い出すだけでも感動で涙してしまうほど、周囲の人に支えられました。憧れのロイヤル・メルボルン病院で働けるようになっても、英語コンプレックスが消えなくて毎日泣いていた私。「みんなの迷惑になるから辞めます」と話したら、看護部長が「あなたは英語のハンデがあるかもしれないけれど、私は患者さんへの態度をすごく評価している。どんなに勉強しても培われないものを持っているの」と。さらには自分より10歳も年下の同僚が「どんなにバカな質問でもいいから、いつでもなんでも聞いて」と言ってくれて。「Yukoは俺の英語よりうまいよ!」と笑わせてくれたネイティブの同僚もいました。できないことを批判するのではなく、私を経験ある看護師として尊重し、得意なところを引き出そうとしてくれていたんですね。愛あるサポートで働き続けることができ、プロジェクトリーダーを任せてもらえるようにもなりました。

7年目。ずっとここにいたいと思ったし、オーストラリアに永住する道もありながら、虚無感を感じ始めていました。こんなに恵まれた環境で満足できないのはなぜかと考えたら、「とき」が来たんだなと。いよいよMSFへ行く時期だ、と採用面接を受けるべく日本に帰国しました。36歳でした。

白川優子さん

パソコン

人生のピークは、40歳から。20代で叶わない夢が、40代で叶うことがある

MSF活動を始めて8年。この1年は4回派遣され、イスラム国(IS)に占拠されていたイラクのモスル、シリアのラッカにも行きました。安全面には十分配慮した場所を拠点にしますが、ときには病院の間近に攻撃が迫ることがあります。不思議なもので、空爆や銃撃の音は避難をくり返しているうちに慣れてしまう。怖さにマヒした者はどんな命取りな行動をとるかわからないため、真っ先に帰国しなさいと言われます。

いちばん苦しかったのは、ラッカの支援のときでしょうか。7年間も戦争をしている地域で、現地の医療者も疲弊している。私たちが技術を教えなくてはいけないのに、あっちでもこっちでも人が死にそうで、オペ室をふたつ用意して手術を同時進行するにも人が全然足りない。ほとんど眠れず体は限界を超え、思考能力がなくなっていて。休まないと危ないのはわかっていたのですが、休む間もないほどの暴力が発生していたんですね。ギリギリの私に気づいて、支えてくれた温かな仲間がいなければ、乗り切れませんでした。

どこの紛争地に行っても感じるのは、泣いているのはまったく戦争に加担していない一般市民だということ。みんな平和を願っていて、私たち日本人となんら変わらない。ただ普通に暮らしているところに爆弾が落ちてきただけなんです。なんとか戦争を止めたくて、看護師という夢を捨ててでもこの現実を伝えなくてはと、ジャーナリストになろうと本気で考えたこともあります。

結局今も看護師を続けているのは、シリアのある少女との出会いがあったから。空爆で足を奪われた彼女は、ずっとふさぎ込んで心を閉ざしてしまっていたのですが、毎日手を握って言葉をかけるうち、帰国直前についに満面の笑顔を見せてくれた。看護師だったからこそ、彼女の笑顔が見られたと気づいたんです。私たちはジャーナリストでさえ入れない地帯に行けます。施設や物資は万全ではないし理想の医療はできないけれど、そこにいるというだけで患者さんやその家族の希望につながるかもしれない。看護の力をあらためて知り、戦争を止められないというジレンマに苦しむことはなくなりました。

日本で看護師をしていたときは、年功序列でしたし、やはり私自身、日々の業務に追われてしまっていた気がします。そうすると、失敗しないため、怒られないための看護になっていく。でも、痛み止めを何度も投与するより、患者さんに寄り添って手を握るほうが痛みを和らげられることがあります。たとえ自分たちがどんなに忙しくても、紛争地であっても、看護師として絶対に忘れてはいけないこと。極限での任務で、原点に帰った気がします。

心身ともに過酷な活動ですが、派遣されるときはお肌の基礎化粧品だけは忘れません。空爆時の避難バッグにも真っ先に入れるくらい(笑)。東京に帰ってくれば、スカートやハイヒールをはいてオフィスで仕事をしたり、友達と食事やお酒を楽しんだり。平穏で安定した日常があります。それでも、世界ではこの21世紀にいまだに戦争をして、人間同士がいがみあっている。空爆が続く限り、私はその空の下で苦しむ人たちのそばにいようと思っています。そして、今後は自分の経験を伝えていくことにも尽力したいですね。20 代で叶わない夢があったとしても、40代で叶うことがある。何か、後輩や将来に迷っている人たちの役に立てたらうれしいです。

白川優子さんの本

世界が知るべき悲しみ、憎しみ、恐怖。
『紛争地の看護師』

紛争地の看護師

紛争地の現場にいた白川さんだからこそ書くことができた、生と死のドキュメントを一冊に。ジャーナリストが立ち入れない「現場」ではいったい何が起こっているのか。私たちと変わらぬ人々が今なお抱える痛みに触れ、戦場は決して遠くの世界ではないと気づかされる。
¥1,400/小学館

Oggi10月号「The Turning Point〜私が『決断』したとき」より
撮影/石田祥平 デザイン/Permanent Yellow Orange 構成/佐藤久美子
再構成/Oggi.jp編集部

白川優子(しらかわゆうこ)

1973年、埼玉県出身。坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校卒。Australian Catholic University(看護科)卒。小学1年生でテレビで観た「国境なき医師団」に感銘を受ける。日本で外科・産婦人科を中心に看護師として計7年間勤務。オーストラリアでの留学、勤務を経て、2010年に「国境なき医師団」に初参加。シリア、イエメン、南スーダン、パレスチナ(ガザ地区)、ネパールなど、紛争地や被災地を中心に活動。これまで計9か国、17回の派遣に応じてきた。


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