書評家の石井千湖がすすめる、人生の局面に寄り添う一冊
会社から帰り道など、猛烈に寂しくなると、将来に不安を感じたり、ネガティブな思考になったりしがち。そうした人生のつらい時期に、自分の気持ちに寄り添う一冊があれば、その本が希望に見えることもあります。
今回書評家の石井千湖さんがおすすめするのは、人生で避けられない局面にあう家族の物語を集めた短編集。
酷薄な日常の中にも希望を感じさせる8編
『まだまだという言葉』
世界は残酷で人生はつらいと思い知らされるのに引き込まれる。現代韓国を代表する作家のひとり、クォン・ヨソンの『まだまだという言葉』は、不思議な魅力のある短編集だ。不器用な父と久しぶりに会う娘のぎこちない交流を昼月の浮かぶ春の田園を背景に描いた「知らない領域」など、8編を収めている。
寝たきりの母の入院代を稼ぐため期間制教師になった「向こう」のN、仕事をかけもちしながらひとりで子供を育てている「友達」のヘオク、声帯を手術してしゃべることを禁じられた「アジの味」の「彼」……。登場人物はそれぞれの困難に直面している。中でも苦しい状況に置かれているのが「爪」のソヒだ。
20歳のソヒはスポーツ用品店で働いている。幼くして父を亡くし、母は小学生のときに蒸発。その後ソヒを食べさせてくれた姉も、母と同じ方法でお金を持ち逃げした。ある日、ソヒは通勤バスの窓から降り注いできた朝の陽射しを見て、右手の親指の爪が半分ぐらい折れたときのことを思い出す。同じ店に勤めていた大学生がアルバイトを辞めるかどうか「お母さんと協議中」と知って平静を失い、スポーツシューズの箱がぎっしり詰まったコンテナの下に手を突っ込んだのだ。ソヒは家族に借金を背負わされて働く以外の選択肢はないが、仕事について親と「協議」できる恵まれた同世代もいる。その格差に対する怒りが、自傷行為のような怪我につながったのだろう。
早く借金を返済したくて必死で貯金するソヒを、ちっとも癒えない爪の傷がさらに追い詰める。なんて救いのない話なのだと思う。しかし、通勤バスで見る陽射しのように、ソヒは「悲しくても好きなもの」を大切にできる。絶望的な日常に小さな喜びを見出し、「まだまだだよ」という言葉を聞きとる力がある。ソヒならば母や姉とは違う道を歩めるのではないかと想像してしまう。人間の心の痛みを容赦なくえぐっているからこそ、かすかな希望が感じられる一編だ。
豚カルビ、ねぎキムチといった食べ物が印象的な形で出てくるところも本書の特色。苦みはあるが味わい深い。
『まだまだという言葉』(河出書房新社)
著/クォン・ヨソン 訳/斎藤真理子
人生の不可解さと不条理を痛烈に描き出すことに定評があり、『青い隙間』『春の宵』『レモン』ほか韓国文学において高い評価を受けている著者の最新作。貧困や不平等などの社会問題、病気、死など人生で避けられない局面をめぐって展開する、家族の物語を集めた8編。
2022年Oggi3月号「働く30歳からのお守りBOOK」より
撮影/新垣隆太(パイルドライバー) 構成/正木 爽・宮田典子(HATSU)
再構成/Oggi.jp編集部
TOP画像/(c)Shutterstock.com
石井千湖
いしい・ちこ/書評家。大学卒業後、約8年間の書店勤務を経て、現在は新聞や雑誌で主に小説を紹介している。著書に『文豪たちの友情』、共著に『世界の8大文学賞』『きっとあなたは、あの本が好き。』がある(すべて立東舎)。