知られざる英雄?
北条義時は何を成し遂げた人か
2022年の大河ドラマ『鎌殿の13人』の主人公は北条政子の弟! どんな人物だったのか、鎌倉歴史文化交流館 学芸員 山本みなみさんに教えてもらいました。
鎌倉歴史文化交流館 学芸員 山本みなみさん
1989年生まれ。専門は中世の政治史・女性史。東西の史料を照合しながら鎌倉時代を読み解き、特に鎌倉幕府や北条氏に精通。北条義時にもっとも肉薄している研究者といわれる。京都大学大学院で博士号を取得。青山学院大学非常勤講師も務める。
歴史上の重要人物なのにあまり知られていない理由
Oggi編集部(以下Oggi) 2022年1月から始まった大河ドラマの舞台は鎌倉時代ですね。主人公・北条義時の名前は初めて聞きました。北条政子のことは知っていますが…。
山本さん(以下敬称略) 北条義時はごく簡単に説明すると、武家政権の礎(いしずえ)を築いた人物で、源頼朝と結婚した北条政子の弟。
鎌倉幕府を開いた頼朝からも目をかけられ、頼朝の死後は、若い〝鎌倉殿〟に代わって政治の実権を握る〝執権〟になりました。鎌倉殿とは、鎌倉幕府の首長のことで将軍とほぼ同じ意味です。その後、京都の朝廷との戦い〝承久(じょうきゅう)の乱〟に勝利し、朝廷と鎌倉幕府の力関係を逆転させた立役者でもあります。
Oggi そんな重要人物なのに、注目されてこなかったとは!
山本 北条氏、つまり北条一族の中でも少し地味なキャラクターではありますね。義時は周囲と相談しながら真面目に物事を進めるタイプだったようで、裏を返すと人間的な面白みには欠けていたのかもしれません。史料にも人物像がわかるようなエピソードが見えなくて。
19歳で頼朝の警護役に抜擢されているのですが、「弓矢の達人で信頼できる人物」という条件が課されていたので、武芸には秀でていたはず。あとは、義時の死後に息子が「勇ましい人だった」と評していたくらいです。
Oggi 謎が多い…。
山本 年配の方の中には、義時にネガティブなイメージを抱いている人も少なからずいるようです。承久の乱に勝利して3人の上皇を流罪にしたことから、特に天皇が神格化された明治時代~戦前は、教科書にも〝天皇に敵対した極悪人〟として描かれ、戦中は触れられすらしなくなった、というのが実情です。
義時がいなかったら承久の乱で鎌倉の町は壊滅して復興には時間がかかったでしょうし、その後、室町〜江戸時代と武家政権が600年以上も続いたかどうかもわかりません。個人的には、幕府存続の危機を救った、むしろ英雄だと思うんです。
数々の合戦を勝ち抜いて13人からひとりになるまで
Oggi 大河ドラマのタイトルの、13人とはだれのことでしょう。
山本 1199年に頼朝が亡くなった後、まだ若い息子の源頼家(よりいえ)が鎌倉殿になった際、彼を支えるために集まった重臣13人のこと。
頼家のおじにあたる北条義時とその父親の北条時政(ときまさ)、比企能員(ひき よしかず)や和田義盛(わだ よしもり)といった武士、京都の朝廷から呼び寄せられていた〝文士〟と呼ばれる事務方の大江広元(おおえの ひろもと)らが、話し合って政権を支えることになったんです。
Oggi 武士の時代に話し合いとは意外です。
山本 史料には明記されていませんが、頼朝の遺志を継ぐ政子の提案としか考えられません。頼朝の生前、義時が比企氏出身の女性「姫の前」に恋をした際、ラブレターを1年間送り続けても相手にされなかった、という話があるんです。
最終的には頼朝が直々に仲介して結婚できたんですが、それは、義時がかわいそうだったからという単純な話ではなくて、頼朝にとって北条氏と比企氏はどちらも重要な後ろ盾だったから。自分の死後も両一族が中心になって次期将軍を支えてほしい、という頼朝の願いを政子と義時が継いだんですね。
Oggi なるほど、親戚になれば、協力せざるをえないと。
山本 でも実際はそううまくはいかなくて。まとまっていたはずの13人が頼朝の死の直後から対立し始めて、その年のうちに梶原氏が失脚。その後も合戦が次々と起こります。
大きな転機になったのは、2代将軍・頼家が病気で危篤になって、3代将軍を選出することになった1203年のこと。北条氏は頼家の弟・実朝(さねとも)を、比企氏は頼家の息子・一幡(いちまん)を擁立しようとして対立。
結局、義時は妻の実家を倒したんです。北条氏の思惑どおり実朝が将軍になったものの、姫の前とは離婚することになってしまいました。
Oggi 切ないですね…。
山本 同じ年に義時の父・北条時政が執権に就任。北条氏が政治の実権を握り始めますが、その2年後には、義時は政子と協力して時政を追放します。
Oggi 実のお父さんを!?
山本 はい。時政と若い後妻・牧の方が、娘婿を次期将軍に擁立しようとしている計画を聞きつけたためでした。義時と政子は、「頼朝の血を引いている実朝を守らなければ!」という使命感にかられて行動したのだと考えられます。
Oggi それにしても、妻の実家に続いて、父親を追放するだなんて、つらい時代ですね。
山本 義時が慕っていた源頼朝も、自分の弟・義経を殺めていますし、人の上に立つためには、ときには家族に対しても冷酷にならないといけないと、学んでいたのかもしれません。その後、和田義盛とも合戦になりますが、勝利。さらに数年後、3代将軍・実朝が暗殺されると、今度は京都の朝廷と対立します。
Oggi 冒頭でお聞きした歴史の転換点、承久の乱の前触れですね。でも、なぜそんなことに?
山本 まず、京都の後鳥羽上皇は実朝と親密な関係を築いていたので、実朝の暗殺を防げなかった義時へ怒りを募らせていました。また実朝を通じて、武士たちをコントロールできなくなったのも不満の原因。実朝には息子がおらず、朝廷から次期将軍を迎える話になったのですが、交渉が決裂してしまって…。
結局、京都から貴族の三寅(みとら)(九条頼経『くじょう よりつね』)を将軍に迎えるのですが、源氏一門の武士が「私こそが将軍にふさわしい」と言い張って京都の御所に立てこもり、火を放って自害するという事件も。いろいろな出来事が重なって後鳥羽上皇が「義時を討て」という命令を出すことになったんです。
Oggi そして、義時側が勝った、ということですね。
山本 はい。昔から義時を支えていた大江広元が「京都にすぐに攻め上るべきだ」と進言し、その意見をもって政子に相談した結果のようです。北条政子の有名なスピーチは知っていますか? 将軍と主従関係を結んでいる御家人たちに「(頼朝の)恩は山よりも高く海よりも深い」と切々と説いたことで鎌倉の武士たちが一致団結し、最終的には19万もの兵が京都に進軍したといわれています。
源氏将軍家は途絶えてしまいましたが、鎌倉の町は発展し、その後、鎌倉幕府が滅びるまで、北条氏が実質的な政治の主導権を握りました。
強力なリーダーシップではなく生真面目にチームを運営して、武家政治の基盤を築いた人物
Oggi ここまでお聞きしても、やっぱり義時は強いリーダーという印象がないですね。数々の戦いで、武士たちを味方につけてきたのがちょっと不思議に思えるくらいです。
山本 周囲の人に恵まれていたのは事実だと思います。ワンマンではなく、周囲の意見を聞いて最善の道を選んでいったんです。
Oggi 確かに、それもひとつの大事な能力ですね。
山本 また、たとえば父親を追放するという当時ではありえない〝親不孝〟も、将軍の命令という形にすることで正当化することに成功。周囲の信頼を失うことはありませんでした。
和田氏との合戦でどちらの味方に付こうか迷っている御家人たちには、将軍のサインが入った「和田を攻めなさい」という書状を配っています。正当性や大義名分が重んじられる時代に、この姉弟は戦い方がうまかった、と言えると思います。
Oggi 義時は、承久の乱の後、わずか3年で亡くなっていますね。
山本 脚気(かっけ)と夏バテ、つまり病死だと考えられます。刺殺されたという説、後妻の伊賀の方に毒を盛られたという説もありますが。
Oggi 北条氏は、将軍を倒して天下を取る、みたいなことは考えなかったんですか?
山本 北条氏はもともと伊豆国の武士で、当時は身分社会の越えられない壁がありました。朝廷から将軍に任命される位に上がるのは現実的ではなかったんです。仮に北条氏が将軍を殺して「今日から俺が将軍だ」と言ったところで、御家人たちには仕える理由=正当性がないので、だれも従わないでしょう。
Oggi なるほど。逆に言うと、政子の言葉が力をもっていたのは、あくまでも政子が頼朝の妻だったから、ということですか。
山本 はい。武家の妻は夫と対等で、夫が不在の場合はその立場を代行する位置づけでした。頼朝の権限を政子が継承していたのは、妻と夫が対等だという前提があるから。御家人たちは政子に亡き頼朝を見ていて、精神的な支柱になっていたんです。
Oggi 女性の地位は低いのかと思っていました。
山本 官職に就けないといったことはありましたが、女性には財産(所領)の配分権も、跡継ぎを決める権限もあって、離婚や再婚も頻繁に行われていました。女性の地位がぐっと下がったのは江戸時代以降のことなんですよ。
Oggi 知らないことだらけ!
山本 関連書籍を読んだり、鎌倉を訪れていただければ、大河ドラマの背景ももっと理解しやすくなります。鎌倉歴史文化交流館にもぜひ足を運んでみてくださいね。
鎌倉幕府で権力を握るまでの道のりは…? 北条義時の一生
1163 伊豆の豪族・北条氏に生まれる
1180 源頼朝の挙兵に協力し、鎌倉へ
1181 頼朝の警護役に選ばれる
1192 源頼朝が征夷大将軍に。頼朝の仲立ちで、比企朝宗の娘、姫の前をめとる
1199 源頼朝死去(享年53)2代将軍・源頼家を支える13人が選ばれ、義時も加わる
1203 妻の実家である比企氏一族を討つ。源実朝が3代将軍に。義時の父・北条時政が執権に就任
1204 源頼家が殺害される(享年23)
1205 父・時政を追放し、2代執権となる
1213 和田義盛との合戦に勝利。北条氏が幕府内にゆるぎない地位を築く
1219 源実朝が暗殺される(享年28)
1221 承久の乱。京都の後鳥羽上皇が義時追討の兵を挙げ、幕府側が勝利
1224 義時死去(享年62)
義時の足跡をたどって鎌倉散策へ…
▲「鶴岡八幡宮の東にある〝法華堂跡(ほっけどうあと)〟は源頼朝と北条義時のお墓。将軍のすぐ隣に眠っているのが重要で、鎌倉を守ったことがそれだけ評価されていた証になるのでは。
▲頼朝が建てた永福寺(ようふくじ)は、現在はその基壇が復元され公園として整備されています。そのほか、義時が建てたお堂から発展した覚園寺(かくおんじ)、邸宅があった場所に建つ宝戒寺(ほうかいじ)など、ゆかりの地を巡ってみて」(山本さん)
知っておきたい! 北条義時のKEYWORD
【1】鎌倉時代
かつては源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年が鎌倉幕府の始まりとされたが、現在は守護・地頭を置く権限が認められた1185年、鎌倉に頼朝が入った1180年など諸説あり。幕府と京都の朝廷が共存しているととらえる考え方から「京・鎌倉時代」と呼ばれることも。
【2】北条政子
平家に敗れて流人として伊豆に滞在していた源頼朝と恋仲に。平家からとがめられることを恐れる父・北条時政の反対を押し切って結婚したとされる。承久の乱の後、2歳の「三寅」を鎌倉4代将軍に迎えた際は、将軍の後見人になることを自ら申し出て「尼将軍」と称されるように。
【3】関連書籍
『鎌倉殿の13人』を読み解く書籍が各種発刊されている。山本さんの初の著書『史伝 北条義時 武家政権を確立した権力者の実像』(小学館)は大河ドラマをより深く楽しむのに最適。カラー写真・図版満載で、鎌倉散索のおともにも。この一冊で〝義時通〟になれるかも!?
【4】鎌倉歴史文化交流館
原始・古代から近現代に至る鎌倉の歴史を紹介する博物館。ジオラマ・プロジェクションマッピング、VRといった最新の映像展示もあり、歴史入門者でも楽しめる工夫が凝らされている。2022年1月4日(火)~3月26日(土)は企画展「北条氏展 vol.1 伊豆から鎌倉へ」を開催。
大河ドラマで北条義時はどう描かれる?
鎌倉幕府を舞台に繰り広げられるパワーゲームの中で、野心とは無縁だった青年がいかにして頂点に上り詰めたのか。脚本家・三谷幸喜さんが「ダークで孤独な男」と評した北条義時を描き、小栗 旬さんが演じる。源頼朝役は大泉 洋さん、北条政子役は小池栄子さん。2022年1月9日(日)よりNHK総合ほかにて放送されています。
2022年Oggi2月号「Oggi大学」より
イラスト/八重樫王明 構成/酒井亜希子(スタッフ・オン)
再構成/Oggi.jp編集部