いつの間にか見失ってしまう、自分の「心」
この世の中で今、心は消滅の危機にさらされている。人々は目の前のことでいっぱいいっぱいで、心を見失ってしまう。
それでも自分や大切な誰かを守るために、私たちは「心」を見つけ出さなければいけないのかもしれません。
今回書評家の石井千湖さんがおすすめするのは、改めて「心とは何か」を考えるきっかけをくれる一冊です。
小さな違和感に隠された、自分だけの「心のありか」とは?
『心はどこへ消えた?』
『心はどこへ消えた?』は臨床心理士の「バジーさん」こと東畑開人が、カウンセリングルームに訪れた人々のエピソードをもとに、人間の心のありかを考察したエッセイ集だ。幼稚園で友達に暴力をふるう4歳児から、自分は幸福だと言いながらカウンセリングに来るのをやめられない老婦人まで、個人の内面に秘められた「小さな物語」が立ち現れる瞬間を綴っている。
たとえば「YouTube、安全なカプセル」は、いわゆる「エリート」で社交能力も高いのに、なぜか定期的に人間関係をリセットしてしまう30代女性の話だ。バジーさんのカウンセリングをいつも「そうかもしれない」と受け入れてきた彼女が、その洗練された仮面を捨てて、隠していた本心をあらわにするくだりは胸を打つ。
爆笑する話もある。バジーさんが甲子園の補欠に肩入れする理由を語った「補欠の品格」だ。バジーさんが大学院生だったころ、合宿に行った帰りの電車で、後輩が突然「僕… 実は補欠やったんです」と告白する。
そして、その場にいた3人の心理士の卵がそろいもそろって中学時代に野球部の補欠だったと発覚。それぞれベンチでどんなことを考えていたか暴露大会をするところがいい。生きることの切なさと面白さが凝縮されているからだ。続く「補欠の人格」も、体より心を動かしてきた補欠ならではの名言の宝庫。
最後の「オレンジの傘で」は、深く沁みる話だ。3年間、毎週欠かさず面接に通ってきた50代前半の女性。初めは娘の不登校が悩みだったが、カウンセリングの結果、彼女は自分の心の傷を発見し、人生が思いがけない方向に変わる。ビニール傘を使っていた彼女がオレンジ色の傘を手にした代わりに失ったものとは…。ぜひ読んで確かめてみてほしい。
読んでいる自分の心はどこにあるのか。本書と対話しながら考えることによって、手がかりが摑めるだろう。
『心はどこへ消えた?』(文藝春秋)
著/東畑開人
『居るのはつらいよ』で第19回大佛次郎論壇賞受賞、第10回紀伊國屋じんぶん大賞をW受賞した気鋭の著者が、「心とは何か」をテーマにしたエッセイ集。臨床心理士でもある著者のもとに訪れる、さまざまな事情を抱えた人たちの物語や著者自身の日常生活…。生きづらい世の中を生き抜く道しるべのような一冊。
2021年Oggi12月号「働く30歳からのお守りBOOK」より
構成/正木 爽・宮田典子(HATSU)
再構成/Oggi.jp編集部
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石井千湖
いしい・ちこ/書評家。大学卒業後、約8年間の書店勤務を経て、現在は新聞や雑誌で主に小説を紹介している。著書に『文豪たちの友情』、共著に『世界の8大文学賞』『きっとあなたは、あの本が好き。』がある(すべて立東舎)。